死後の世界や極楽浄土の世界と思える現象が見えるように

死後の世界や、極楽浄土と思える所が見え出す時は、私が寝ようとして布団に横になるか、冥想などをしていて心が鎮まった状態になると、身体自体が消えてなくなったようになり、その後、暫くすると見えてくるのです。その死後の世界や、極楽浄土と思える所が実際に見える事は数多くあり、更に、類似はしているが、その都度、その現象は異なっていると表現しても良いと思います。

ある時は、真っ青に空は晴れ渡り、その遥か遠くには眩しいほどの様々な光りが光り輝き、その手前には、広大に広がっている土地一面に、様々な例えようのないほど綺麗な花が咲きみだれ、そして、表現の難しいほど爽やかな風が吹き抜け、更には、様々な蝶のようなものや、鳥などのようなものが、様々な色に光り輝きながら飛び交う姿が見えるのです。

また、自分自身の目の前には、幅が百mほどもある川が横たわり、川底には、球に近い拳大の石がゴロゴロと転がっており、水はと言うと、少ししか流れておらず、歩いても渡るなら渡れるようにも思えるのです。

そこで、向こう岸があまりにも綺麗で、美しく爽やかな風が吹いてくるので、歩いて行こうとすると、どうしても自分自身の足を動かす事ができず、川を越える事ができません。歩いていく事はできないので、その花畑の方向を見ていると、今度は、大勢の方々が思い思いの格好をして、花畑の中を歩いて、光りの方向に遠ざかって行くのが見えるのです。自分も送れまいと、川を渡ろうとするのですが、身動きがどうしても取れないのです。

そのうち、花畑を歩いていた人々は遠くに行きさり、見えなくなり、自分は置いてきぼりになって悲しんでいると、ふと、我に返る事がしばしばあったのです。この際、私自身が置き去りにされては大変と、大声で呼び掛けるのですが、こちら側には全く反応せず、整然と並びながら歩いて行き去ってしまったのです。また、信じられない事に、大勢の方々が通ったはずの花畑のような場所は、全く踏みつけた後がなく乱れていなかったのです。

もう一つのこの例の場合もやはり、真っ青に空は晴れ渡り、本当に表現に困るような暖かさと爽やかさのある風が感じられ、更に、広大に広がる様々な形をした岩山が連なり、その岩山は、様々な光りを放ちながら輝き、私の目の前には、歩いても簡単に越せる水の流れていない谷間が広がり、その岩山には、方々に数々の石碑のような石柱が様々な色に光り輝きながら見えていたのです。

その岩山には、多くの方々が、何やらあちらこちらに、石積みの山を造る作業をしているのが見えていたのです。あまりにも、その岩山が光り輝き綺麗なので、私も行こうとすると、なぜか、全く足を動かす事ができず、向こう岸には行けなかったのです。どうしても、私は向こう岸に行きたいので、大声で向こう岸にいる方々に呼び掛けるのですが、これまた、全く、こちら側には見向きもせず、黙々と作業を続けているのです。そのうち、ふと、我に返り見えなくなったのです。

ところで、この死後の世界と思われる場所を見た場合には、他の場合でも同様なのですが、意識だけで見たはずが、足が動かなかったと感じた事も、何とも理解のできなかった数々の不思議な例の一つとしてあったのです。

また、こちら側にいる私に全く反応をしていないと言う事は、私自体が見えていると思っているだけであり、実際には、死後の世界とか、霊の世界などと言われている世界に、実際に行っていないと理解すべきなのかも知れないのです。そして、その見えたり、感じたりするものは実際にはなく、自分自身の脳内にある自我意識を見たり、感じたりしているのではないのでしょうか。

ところで、この極楽浄土と思われるところが見える体験は、建物や庭などが様々な光りに輝きながら見えるのですが、この建物は、現存するとは言えないほど煌びやかであり、例える事はできないほどのものであり、しかも、様々な色にて輝いてはいるのですが、そこに存在するもの全てが、透き通っていると表現をしても良いほどのものであったのです。

もし無理をして例えるなら、贅を尽くして建築した和室のようでもあり、まるで、これ以上の贅沢はできないであろうとして、建築していると言わなければならないような建物であり、また、庭はと言うとこれまた、絶対に人為的には造れないように素晴らしい物であり、その素晴らしい庭にある池や木々が、これまた、例える事ができないほどの様々な光りを放ちながら光り輝いて見えるのです。

この状景に匹敵するものとして上げるとすれば、贅を尽くして、煌びやかに作製された仏壇などがありますが、その仏壇などとは全く比較にならないようであったとしておきます。また、廻りはと言うと、これまた、表現ができないほど素晴らしく、様々な光りに輝きながら見え、更に、空気のはてまで、これ以上気分のよい温度、そして、環境はないと表現しなければならないようであったとしておきます。

そこで、自分はと言うと、まるで透明人間にでもなったように感じて見えるのですが、床に座っていたり、立っていると言うものではなく、宙に浮いていて、自分の意思にて自由に行動もでき、更に、何の障害も無く、自由自在に建物は勿論、池や木々の中を潜り抜けることも自由であり、そして、その建物や庭の石、木々などとも同化もできるので、自分自身がその建物や木々になったようにも見えたり、感じたりもするのです、それこそ、全く理解に苦しむことが頻繁にあったのです。

この様々な色にて輝きながら見えるものは、全て、形があるようにも見えるのですが、よくよく見ると、全てが在るようで無いような、透き通っているような、何とも表現に困るようであったのです。しかし、想像を超えた素晴らしさは感じられ、これこそ、極楽浄土なのかも知れないと思ったできごとであったのです。

とにもかくにも、廻りに存在するあらゆるもの全てが、例えようもないほど様々な光りに輝くと共に、表現の方法がないほど素晴らしく、安堵感と幸福感があると記載しておきます。その時の心の安堵感や安らぎは、どのように表現したらよいのか、表現をしようにも、しようがないと記載する以外はないと述べておきます。それほど素晴らしい体験であるのです。

また、一般には幽霊と称される姿を見ていた時期も、約六ヶ月ほどあったのですが、この幽霊と思われるものが見える場合にも、確かに、自分の極近くに見えているのですが、恐ろしくもなく悪さをする事もなく、こちら側から話し掛けようと何をしようと変化はなく、また更に、肉体があるように見えるのですが、私が幽体離脱した時の状況と同じで、その幽霊もまた、全ての物を難なく通過しているようにも感じるのです。

なお、例え、幽霊と称するものが見えたとしても、その幽霊に対して意識を取られ、惑わされてはならないとされているのです。理由は、霊の世界ではなく、唯一の神の心の世界を目指して修行を積んでいるのであり、霊が見えるとか、霊の事がわかるなどと言う方は、霊を意識する事により、自分自身の意識が霊の次元と共鳴しているのです。よって、霊を見たとか、霊が見えるなどと自慢するものではないのです。

霊が見えるとは、霊の次元と共鳴している事を物語るものであり、次元の低い位置に、自分の意識がある事なのですから注意すべきなのです。また、霊が見える場合には、 貴方の意識が霊の次元にあることであり、心のあり方が、まだまだの状態であることを、認識しなければならないような気がしています。

よく亡くなった方を表現する場合には、白の装束であり、頭には白の頭巾を描く事が当然のようになっていますが、そのような格好の姿は一度も見た事はなく、普段の生活にて着ていた服装であった事が最も印象的であったと思います。

 


 

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