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 瞑想とは難しいものです。人は精神世界の事柄に興味を覚えて瞑想することを始めたりするかもしれませんが、瞑想は簡単な事柄ではありません。普通の人間にとって、長時間坐っていることさえ容易ではないでしょう。禅堂で坐禅する修業僧をテレビの報道番組などで見たりしても、坐っている間、黙然として微動だにせず、また少しばかりの隙が生じただけで、警策でビシリと肩を打たれたりして、本当に大変な修行であると思います。禅宗の修行は苛酷なほど厳しいようで、普通の人では勤まるものではないでしょう。悟りたい、真理を得たい、霊性を究めたいという、そのような熱烈な求道心を持つ修行僧だけが、普通人では持ち得ないような断固とした強い意思を持って、言語を絶するほどの厳しい修行に打ち込むことができるのでしょう。そのような意思強固で、真理を求めてひたすらに仏道を歩む日本の霊性修行者たちに私は心から尊崇の念を抱きます。

 意思薄弱で、何事も中途半端なことしかできない、普通の人間である私には、禅の修業のことや高邁な禅の教えなどを口にすることさえ憚られるのですが、でも、私も自分なりに宗教に関心を持って、自分のできる範囲内で真理を知ろうと努めてきたのです。仏陀やキリストを神様だと思っていた子供の頃の素朴な宗教観を成人してもそのまま持ち続けている私は、この地球に現れ出た最高の宗教者とは、やはり仏陀とキリストであると現在でも思っています。仏陀やキリストの、人類に対する慈愛を思うとき、私たち普通の人間は彼らのように生きることはできなくても、仏陀やキリストが人類を救済したいと願った、その愛の百万分の一の思いだけでも心の中に抱いて、そして他者に対して愛という思いやりと同情の心を持って、この人生を生きていくべきではないだろうかと私は思うのです。

 私は若い頃から宗教に興味を持っていました。そして自分なりに坐禅をして瞑想してきました。それは自己流の瞑想であって、指導者がいたなら、警策でバシバシ打たれて挫折してしまうような、いい加減な坐禅だったかもしれません。しかし、何はともあれ、自己流で好きな時間に好きなように長い年月に亘って瞑想してきて、確固としたものはつかみきれませんでしたが、それでも自分なりに工夫をして瞑想してきたことは、私には意味のあることであったと思っています。禅僧からすれば、歯牙にもかけられないような、そして大笑いされてしまうような瞑想なのかもしれませんが、笑われることを覚悟で、私の瞑想に対する思いをここに記したいと思います。

 私が坐禅や禅の教えに興味を持ったのは二十代の半ばでした。平凡なOLとして働いていたそのころの私は、自分の人生が自分の思うようにはならず、生きることの空しさや世の中の不条理を感じて、心の充足感を求めて、人生論を主題にしているようなエッセイを読みあさったり、禅の教えが述べられている本を読んだりして、懸命に心の渇きを癒そうとしていました。心の中の何かが宗教的な方向へ私を向かわしめて、心の渇望を満たそうと、その頃の私はもがいていたようです。禅の教えが著わされている書物を読んで私が思ったことは、結局、私の心が渇望しているものは、<只管打坐(しかんたざ)>の教えに従って、坐禅をすることによってしか見出されないのではないだろうかということでした。それで、私は坐禅をするようになったのです。初めは、ただ坐っているだけでした。最初は長く坐っていることさえ大変なことでしたが、坐って、心が静まっていくのを感じるのは快いことであると解ってきました。その日一日をどのように過ごしたかという、反省することを含めて、自分の心と向かいあうことは私にとっては嫌なことではありませんでしたし、黙然と坐り続けていることも私にはそれほど苦痛ではありませんでした。そんな坐禅を数年はやっていたのでしょうか、その間に禅とヨガの本を多読するようになり、本格的に坐禅と取り組みたいと思って、就寝前と明け方に一時間ほど坐禅をすることが私の日課になったのです。

 坐禅するには、結跏趺坐(けっかふざ)などという、坐禅のための特有な坐り方があるようですが、私は足を組むことをしないで、胡坐(あぐら)のような楽な座り方で坐禅をしていました。実際、私は足をしっかりと組むことができなかったのです。と言うのは、若い頃、北海道の牧場で観光用の馬に乗ったとき、その馬が疾走してしまい、馬を抑える術を知らない私は、鞍の上で強度に揺すられてしまったことがあって、その事故が原因で椎間板ヘルニア症となり、以後、足を組んで長く坐るということができなくなったからです。ただ、肩の力を抜いて背骨をまっすぐに立てるという、坐禅における重要な点だけは常に守っていました。椅子に坐って瞑想したこともありましたが、そのときも背骨をまっすぐに伸ばした姿勢を保つということだけはしっかりと守っていました。

 クンダリニーが覚醒するという、衝撃的な出来事を体験したのは、私にとって瞑想することが日課になっていた時期の三十一、二歳の頃であったと思います。幽体離脱を体験してそれからすぐの頃であったと思いますが、あるとき、就寝前の瞑想をしていたときにクンダリニー覚醒が起こったのです。幽体離脱体験も強烈な印象を私に残しましたが、クンダリニー覚醒は、それ以上の、言葉では言い表せないような凄まじい体験でした。

 いつものように就寝前の瞑想を始めて一時間が過ぎた頃だったでしょうか、心の中には何の思考もなく、私はとても平安な気持ちでいたのです。ただ、感覚だけは研ぎ澄まされたように鋭敏な感じでした。まず最初に尾骨のあたりでむずむずするような感覚が生じました。そして、そのむずむずするような感覚が、初めは徐々にではありましたが、尾骨から背骨に沿ってじりじりと這い上がっていく感じがして、それと同時に勢いとスピードが増していくように感じられました。すると突然、私の目の前に光がきらめき、次には一瞬にして部屋が光の海になりました。身体が非常に熱くなり、汗が噴き出てきました。尾骨から臍の位置にまで達したそのズズズズと這い上がっていく感覚に、私は恐怖を覚えて、心の中で必死になって神に祈りました。『神様、止めてください。助けてください』と、必死で祈ったのです。このままだと死んでしまうかもしれないと思って、ともかく必死でした。神に対して一生懸命に祈ったことを今でも鮮明に憶えています。その結果、ズズズズと上昇する動きは背中の中間くらいの位置で止まりました。興奮が治まらず、身動きもできずに、汗びっしょりの身体で、しばらくは放心状態でした。そしてそのあとは、クンダリニーを覚醒させたいと願ったことに対する後悔の思いと、助かったという安堵の思いがごちゃ混ぜになって、私はしばらくのあいだ蒲団の上で泣き崩れていました。

 翌朝、等身大の鏡の前で背中を写してみると、尾骨から背骨に沿って背中の中間くらいまで、二、三センチ幅の茶っぽい痣(あざ)のような筋がくっきりと浮き出ていました。背骨に損傷が生じていて、あとになってから重大な病気になっては大変だと思い、早々に病院へ行って、医師に診察してもらいましたが、背骨に異常は生じていないとのことでした。医師のその言葉で非常に安堵したことを憶えています。けれども、背骨に沿ったその茶っぽい火傷の痕のような太い筋は、数年後までくっきりとした痕跡を留めていました。

 クンダリニーに関して、私はヨガの本を読んで或る程度の知識を持っているつもりでした。そしてその当時、クンダリニー覚醒は霊性の道を歩む上で最終的なものであろうと私には思われましたので、私がクンダリニーに大いに興味を抱いたのは当然のことでしょう。実際、私がクンダリニーを覚醒させたいと望んだことも事実なのです。けれども、クンダリニーに関する私の知識は、ヨガの本を通しての単なる観念にすぎず、グルや師家と呼ばれるような霊性指導者からの指導による実際的な知識ではありませんでしたから、偶然に起こってしまった出来事にどう対処してよいか、私には全く解りませんでした。クンダリニー覚醒に対する私の意図は、ヨガに関して深い知識も持たずに、幽玄なる霊性を探求することを望んだという、言わば、無知な人間の単なる熱望から発したものであると、今なら冷静に当時の自分の未熟さを語ることができます。けれど、その当時の私は、宗教を学び始めたばかりの初学者であり、クンダリニー覚醒がそれほど大きな危険を孕んでいるものだとは、露ほども認識していなかったのです。そして、宗教を独習している身には、霊性の道を歩むことが断崖の道を行くように険しいものだとは想像もできなかったことなのです。

 その後は瞑想することを一時止めてしまいました。あのときの体験は言葉では表現できないほどの衝撃的なものでしたし、瞑想して再度同様なことが起こったら、私には手の尽くしようがないと思って、その後数年は瞑想しなかったと思います。クンダリニー覚醒という衝撃的な体験をしたあとで、私に特別な変化が起こったというようなことはありませんでしたが、しばらくの間、私は感覚が非常に鋭敏になったことと、感情的に高揚することが多かったということは特記すべきことだと思います。たとえば、普通に道を歩いているのに、突然にその道がきらきらと光輝くように見えたりしたことがありました。そのとき、自分がふっと浮き上がるように感じられ、そして胸が熱く膨らむような感じで至福感が湧き起こってきて、涙があふれてくるのを止めることもできないような状態になったことがあります。些細なことに対しても情緒的な高揚感がしばしば起こり、そのような不安定な精神状態はしばらくの間続いていました。

 私の場合は、クンダリニーは途中で止まって、それ以後、クンダリニーを頭頂にまで上昇させようとする努力はしませんでした。そして、私はそれでよかったと今でも思っています。私は心霊力を得たいとは思いませんし、今後もクンダリニーを頭頂にまで上昇させたいとは思わないでしょう。クンダリニー覚醒は本当に危険なことであり、ヨガの真正なグルか、密教の高僧か、禅の師家というような、霊性指導者の導きなくしては、霊性の初学者が生半可な知識で手を出すような事柄では絶対にありません。私の場合、クンダリニーが途中で止まってくれたし、その後に重大な病気を引き起こしたりもせず、不具にもならないで、私は非常に幸運であったと思っています。

 瞑想はクンダリニーを覚醒させることが目的ではなく、サマーディ状態に入ること、そしてその状態の中で直観によって真理を悟ることであると私は思っています。その状態に到達して至福感情を楽しんだとしても、なお、日々において瞑想し続けるならば、瞑想している人が気づかないうちにクンダリニーは自然に覚醒していることでしょう。多年に亘って瞑想しているにもかかわらず、クンダリニーが覚醒しなくても、それはいっこうに構わないことです。大事なことは、瞑想し続けて、心が静まっていく状態を見守ることです。そして、心が完全に静まったとき、空無の中で、そこにある本当の自分に気づくのです。禅の師家からすれば、私の瞑想などは中途半端なものかもしれませんが、今の私にはここまでのことしか言えません。ここまでのことしか私には解っていませんが、それでも私は自分の奥底の高次の存在を知って、自分が連綿と存在してきたこと、そしてこれからも存在し続けることを得心できたのです。

 霊性の道を歩もうとする初学者は、必ず禅やヨガの指導者に師事すべきでしょう。ただ、日本ではヨガの真正な指導者がいないように思われますので、瞑想によって真理と普遍進化の道を歩もうとする霊性探求者は、禅の師家に師事して教えを受けたらよいのではないだろうかと思います。霊性の道は非常に奥深く幽玄ですから、初学者が独習で進むことは、障害や困難が大きすぎてとても危険であると私は思います。私は霊性の師を得ることができませんでしたが、禅を究めた方を師として、その指導を受けることができたなら、私の精神性の進歩向上は多大に進捗していたことでしょう。禅の法灯を受け継ぐ師家が胸襟を大きく開いて、市井の求道者を快く受け入れてくれる土壌が日本では醸成されていないように思われます。私がヨガを学ぶために半年間滞在したインドは、精神国家であり、社会の最下層にある人々でさえも宗教的願望を抱いて、そしてそれを成就させうる社会環境であることはすばらしいことだと思いました。日本もいつかはそのようになってほしいと私は願っています。物質文化に満たされず、心の渇望の充足を精神性に求めている現代の日本の人々のためにも、伝統ある日本の禅がその門戸を広く一般大衆に開放することを、私は心から願っています。 

 

 

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